大儀に生きるのをベースとし可能な限り目前の人を救うのが人の道

金原です。

今回は、「人の生きる道」について考えていこうと思います。


誰かを助けたい、社会貢献をしたいと思った時、そこには大抵「社会のしがらみ」という大きな壁が存在するものです。

法律の問題、人間関係の問題、お金の問題、利権の問題。

社会貢献するということは、最終的に一人一人の人間に貢献するということでもあるのですが、例えば上記の様な壁が邪魔で、救いたい相手に手を差し伸べることすらもできないことがあります。

そうなると、社会の構造や仕組みを変えなければならないことになるでしょう。


ただ、この時僕らがよく考えなければならない事が一つあります。

それは、「個人を救うことを優先するか?社会を変えることを優先するか?」ということです。


例えば、アフリカで飢える子供たちに食事を与えることは、その部分だけを評価しようとすると、社会全体にとってはマイナスの行為となります。

なぜなら、貧困層の人口が爆発的に増えてしまうからです。

そこには、多くの命を救った結果、貧困や飢えに苦しむ人が余計に増えてしまうという構造があります。

なので、理想は先に社会を変えて(医療や教育を整えて)、貧困層で生まれて飢餓で苦しむような子供達の数が増えないようにすると良いわけです。


ですが、「だったら今苦しんでいる子供を見殺しにしてもいいのか?」という問題が残りますよね。

なので、僕ら義人(正義を重んじる人)は、「一体何を優先して生きていくべきなのか?」を考えていくべきなのです。


ということで、今回は「物事の優先順位」という尺度から、正義について考えていこうと思います。



社会のしがらみで個人を救えない場合どうすべき?

正義を重んじる義人は世界中に散らばっていますから、そこに困っている人がいたら、それぞれが手を差し伸べて救えばいいわけです。

しかし、さっきも言ったように、それがなかなかうまくいかないこともあります。

それが、社会のしがらみに邪魔された時です。

ここで無理に相手を救おうとすると、最悪の場合は自分が犯罪者になってしまうことがあったり(法律の問題などで)、破壊によって結果的には多くの人を困らせてしまうことになったりするかもしれません。

なので、こういう時は慎重になった方がいいでしょう。


例えば「誰かを救うために誰かを殺すべきか?」という問題は考えるのが非常に難しいのですが、ここで一つ、はっきりしてることがあります。

それは、「個人を救うためには社会を変えなければならない」ということです。


社会に何か問題があったとすれば、その下には同じ問題で困っている人が大勢います。

なので、より、多くの個人を救うためにも、社会に変化を起こすべきなのです。


ただ、この「より多くの人を救う」という考えを元にするならば、「自分が救いたいと思っている”特定の個人”を救えればいいんだ」ということにはならないと思いますね。

「自分がこの人を救いたいと思っているのだから、救うことができれば他の人はどうなってもいい」というのは個人のエゴであり、正義とは全く離れたものになってしまいます。

なので、ここで考えなければならないのは、「目の前の人を救うために社会を変える」ということではなく、「より多くの人が救われるために社会を変える」ということです。

これが、「個人貢献」ではなく「社会貢献」という言葉になっている理由でしょうね。


つまり、仮にあなたの目の前に困っている人がいたとしても、その人を助けることがエゴにつながる場合は、「必ず助けてやるから待っていろよ」と言ってその場を去り、社会を変えようと活動するべきなのです。

これがいわゆる「大義に生きる」ということであります。



大義に生きることだけが正義というわけでもない

大義に生きれば、社会の根本原因が解決され、より多くの人が救われるわけです。

しかし、個人が切実な問題を抱えていて、今すぐ救ってやる必要がある場合には、多少のエゴがあっても手を差し伸べてあげるべきでしょうね。


この、大義に生きるという全体的なアプローチは「東洋医学的」、個人を救う(小義)という局所的なアプローチは「西洋医学的」だと言えます。

大義に生きるのがいいというのはもっともなのですが、実際には東洋医学と西洋医学の両方が必要なのです。

例えば人体のことで言えば、生活習慣を変えればガンが治る(東洋医学的アプローチ)と言っても、末期癌で余命宣告されている人の場合は取り除かなければなりません(西洋医学的アプローチ)から、これと同じことですね。


結論、普段は大義に生きることでより多くの人が救われるように努め、切実な問題で困る人を見かけたらすぐに手を差し伸べてあげること。

これが義人の進むべき正義の道というか、その道を歩む時の優先順位だと言えるでしょう。


ただ、これはあくまで「基本的な話」です。

確かに、大義に生きた方が人類はより大きく進歩しますし、その方が後世の人たちはより幸せな人生を送ることができるようになるでしょう。

ただし、現代にも人は生きていますから、その人達の幸せについても考えてあげなければいけません。

この場合は「後世」が大義で、「現代人」が小義に当てはまります。

こう考えた時には、小義である現代人が幸せに暮らした結果、より良い社会を大義である後世が引き継ぐという構造を作ることも可能です。


つまり、大義と小義のどちらを優先すべきかは、扱う状況によって変わってくるということが言えますね。

なので、一つの事例として、「人による向き不向き」という尺度から、大義と小義の優先順位がどう変わるか?について、考えてみましょう。



人による大義と小義に対する向き不向きの違い

人には「向き不向き」があるわけですが、それは、その人が大義に対して働きかけるのが得意か?それとも小義に対して働きかけるのが得意か?と言うことにも当てはまります。

例えば、全国民に関係する消費税などの税率をコントロールする政治家をやるのに向いている人がいたり、介護施設でお年寄り一人一人に直接貢献するのが向いている人がいたりするわけです。

なので、「基本的には大義に生きた方が良いのだから、みんな普段は大義を意識すべきだ」と一概に言うことはできないのです。(もちろん大義を意識すること自体は大切ですが。)


そもそも、この社会は「様々なタイプの人がいるお陰」で成り立っています。

人類全員が大義を優先していたら、人の助け無しでは生きていけない様な人たちがみんなほったからしにされてしまい、のたれ死んで行くことになるでしょう。

まあ、これは「どこからが大義でどこからが小義なのか?」という基準にもよるのですが、とにかく、世の中を変えようとする人も必要だし、個人を救ってくれる人も必要だということですね。


ここで、認識してもらいたいことが一つあります。

それは、それぞれ得意とするフィールドが違うなら、「自分が世の中をどうしたいか?」と「自分に何ができるか?」は違ってくるということです。

要は、「希望」と「可能」は違うものだということですね。

人生はできることから広げていくしかないので、初めに大義を意識して「世の中をもっとこうしたい!」と思ったとしても、まずは自分にできること、つまり小義から攻めていくしかありません。


まあ、贅沢を言うことはできませんね。

大義に生きれば小義を捨てることになるでしょうし、小義に生きれば大義に手が届かないということになってしまいますから、一人一人が「これが自分の役目だ」と割り切り、時には他人に任せるということが必要なのです。


では、仮に大義を優先して小義を捨てなければならなくなった時、僕らは何を考え、何をしていくべきでしょうか?

最後にこここを考えて終わりにしようと思います。



小義を捨てたとしても見て見ぬフリはできない

大義に手を付ける側の人間には、例えば経営者とか、政治家とか、大きなコミュニティーのリーダーなどがいます。

そんな人たちが小義側で理不尽に困っている人を見かけたとしたら、どうするべきでしょうかね?

別に「お金をあげろ」とか、そんなことは言わないですけど、もし時間や体力に余裕があったなら、「声ぐらいはかけてあげるべき」なんじゃないかと、こう思いますね。


例えば、経営者が支社や店舗を訪れた時、そこで働く従業員が暗い顔をしていたら、

「大丈夫?気分でも悪いのか?」
「いつもありがとうね。お互い頑張ろうね。」

例えばこんな風に、ねぎらう言葉を簡単でいいからかけてやれば、人は心を持ってますから、変わるものがあるはずです。


日本はどうかって言ったら、おそらくその反対で、従業員側(小義)の人間が、上の人間(大義)に対してゴマをする様な「接待」ばかりしてるんじゃないでしょうか。(上司が部下を叱りつけてばかりの場合もあるかもしれません。)

それには、接待をする本人が個人的な立場を守ろうとしていたり、自分の部下を守ろうとしていたり、単に上司の性格が悪いのをやり過ごしていたり、自分たちの悪い部分を隠してやり過ごそうをしていたり、色々理由はあるんでしょうね。

それでも、大義の人間と小義の人間が互いに「ねぎらいの心」が無いという時には、少なくともどちらか一方は「義を重んじていない」はずです。


困っている人を見かけた時、世のため人のためを思う気持ちが自分にあるなら、例え自分の役目以外のことであっても、声をかけてあげるぐらいのことはしてあげたいものですね。



まとめ

今回の話をまとめると、こんな感じかと。


→社会を変えないと個人を救えないことはできないが、社会を変えるために「大義」を優先することだけが正義だとは言えず、「小義」と合わせた両方が必要。

→そもそも人によって得意(役割)が違うから、大義に向いた人は大義に、小義に向いた人は小義に取り掛かれば良い。(どちらかを捨てなければならない)

→大義を取って小義を捨てたとしても、「困っている人がいたら声ぐらいはかけてあげたいよね」というのが人の心というもの。


初めは誰しもが小義(比較的小さな課題)に手を付けることから始めるしかないわけですから、まずはそれぞれが目の前で困っている人を助けようとしてみることです。

そこから社会を変える必要が出てきて、なおかつ自分に大義をどうにかできる器があるのであれば、その人が人の上に立って世の中を変えていきます。

そしてとうとう大物になったとしても、困っている人とすれ違う時には、声くらいはかけてやり、ねぎらってあげたいですよね。


と、こんな流れがあるわけですし、人は無垢な状態で生まれてきますから、皆が一度は大義側の人間を目指してみてもいいかもしれません。

そして、最終的に大義と小義、そのどのどちらの人間に落ち着こうとも、世のため人のためを思う気持ち、これだけは無くしたく無いものです。

でないと大義も小義も関係なく、悪い人間になっていってしまいますから。


もしかすると、「大義」とか「小義」とかいうことよりも、「愛情」について考えることの方がよっぽど重要なのかもしれませんね。(両方あってナンボだとは思いますが。)

そんな気付きを最後に、この記事を書き終えようと思います。


それでは、ありがとうございました。