「犬のおまわりさん」の歌の意味。社会が人権を取り戻す方法

日本は無宗教だというが、むしろ世界で一番宗教色の強い国である。

自ら学び取ろうとする姿勢である学問が腐敗堕落すると、訳のわからないヘンテコな教えを鵜呑みにする宗教へと堕ちるのは世の常。

宗教団体に属していなくても、神(上)が「右」といえば皆んな右を向き、それに従わないものを異端児扱いする。

そうやって、宗教警察がいなくても、国民一人一人が自ら宗教警察の役目を果たすのはなぜだろうか。


人生や日々の生活態度、その時の判断基準や価値観まで、全てを何かのせいにし、自分では改善しようとしない。

自分というものが無く、自分の生き方やファッションが無い。

つまり、自信が無いのだ。


自信がないから、女性経験を多く積もうとする。

自信がないから、要らないお金で大金持ちになろうとし、人気者になろうとする。

その根源には、発達障害の特徴である「心の余裕の無さ」が垣間見える。

年収1000万円以上の上司が、心の穴を埋めるために、時給1000円のパート・アルバイトに対して「おっぱい頂戴」のパワーハラスメントが横行している。


ここには人権があまり無い。

特に古株の大企業ではそうであろう。

猫は泣く。芝生の柵を越えて。

隣の芝生は青く見えるという。

皆んな同じ方を向いて歩くから、そこには競合しかいなくなり、余計な競争原理が働く。


なぜか、みんな同じ様なものを作る様になった。

そして、大企業の大量生産に勝てないからといって、低コスト化を図ったゴミ商品、ブランド化や差別化の必要性に対して発生する追加の商品開発コスト、プロモーションや広告にかかる莫大なコスト。

自ら同じ市場に集まっておきながら、そこで小競り合いをし、サービス残業をしたり、早期退職者を募集して、優秀な人材がいなくなったり。


残された低脳達は、「ゆるふわ・マイルド・ヤンキー」ばかり。

それをいっこうに育てようとせず、インスタントな方法で管理・統制・支配しようとすれば、いつの間にかマニュアルがルールにすり替わっている。


マニュアルは取扱説明書であり、ルールではない。

「マニュアルを読んだらマニュアル運転」をしなければならない。


ところが世の中、特に日本という国では、車に運転されてしまう。

車が要らないはずの立地に住んでいる人が、車がないと生きていけないかの様な思い込みに陥っている。

スマホも同じだろう。

猫という文字の意味

猫という文字は、耳を立てた「犬の象形文字」+「苗」という形をしている。

猫が芝生の苗を植える様に歩き、あの道端でゴロゴロしている姿が、人々の心の壁を溶かしてくれているからだろう。


そして、犬の耳が世間の声を聞いている。

先程の下りで分かっただろう。

なんと情けなく、不甲斐なく、悲しいことなのか。

警察は人権について動けない

彼らが動くには逮捕状が必要だ。

逮捕状があったところで、人権に対して何ができるというのか。


しかし、それは警察の「業務」の話。


職業ではなく、「1人の人間の役目」として、警察をやればいい。

警備でもいいだろう。


警察や警備の様な立場にあるものが、「ワンワン・ワンワン・・・・」と吠え続けるとどうなるか?

負け犬の遠吠えで、試合に負けて勝負に勝つ。

「お巡りさん、もうお手上げだよー!」

こう言っていると決めつけるのはまだ早い。

あれが「負け犬の遠吠え」ならば、そこで警察・警備の言っていることは、「世間的・常識的に正しいこと」である可能性が高いからだ。

だからこそ、性格の悪いマウント取りのガキンチョ野郎が、「ふん、負け犬の遠吠えだろう。」と言って、自分を安心させようとする訳である。


あとは、たった1人で吠え続ければ、漫談か落語か分からない状態が続くだろう。

人によっては、それを見て「あの人、1人で喋ってる。気持ち悪ーい。」なんて言うかもしれない。

日本の芸能を知らないのは可哀想だな。


それでも、日本には良い人がたくさん居る。

人権の無さからか、皆んな仮面を被った様に静かにしているが、こちらにクレームを言うことなく、むしろ頭を下げて去っていく人も増えて来る。

そして、いつしか警察・警備の遠吠えが普通になる。


周りの人は、警察・警備の前を通り過ぎる時に、聞き齧った世間の常識や、どうあるべなのか?という倫理を学び始める。

初めは「あいつがおかしい」と思っていたものが、「別に普通」の景色になっていく。

道化師(ピエロ)の仕事

大声を立てている、一見おかしな奴がいるけれど、それでも問題なく、普通に過ぎていく日常なら。

声を出して泣いている子供のことが気にならなくなり、電話の相手である妻に対して怒鳴っているおじさんのことが気にならなくなる。

そして、僕や私に少しぐらいミスや粗相がっても、大丈夫、大丈夫、みんな大丈夫だ。


「お互いのおかしなところ」と言っても、それは十人十色の「個性」でしか無いかもしれない。

そして、肩の力を抜き、鼻歌くらい歌って歩ける様な「余裕」が持てる社会になったなら。


母親・父親の腕の中で泣いている幼い子供が、単にどっぷり甘えて楽しんでいる幸せ者であり、見ていて「とても心温まる光景じゃないか」と肯定できる様になっていく。

怒っている人の感情が、実は「相手にはまだ成長する見込みがある」と信じて諦めない優しさの裏返しだと分かり、「捨てたものではないな」と肯定できる様になっていく。


人の道を歩む者が、結果として何かをやり始め、化けた姿。

それが「道化」であり、ピエロ・道化師なのである。

猫として歩き、犬として吠える。

押さえつける上司に「権力」があるのではない。

一人一人の人間に「人権」があるんだ。


では、「権」とは一体・・・・?


・はかりごと
・人を騙す様な計画
・最後の結果は良いが、やり方が一般的では無い様子


教養、武芸と嗜み、芸能、人生経験。

世間の仕組みや人の苦労を知り、それを動かす政治家的な側面、そのおかしな活動の上でも他人から舐められない程の武力。


織田信長が、神道家であり、気狂いであったという言い伝えがあるらしい。

そして、それが部下たちの指揮を上げ、戦に勝っていった。

要するに、「コミュニティー単位の政(まつりごと)」である。


日本の芸能の中に、色々ある。

落語、漫談、詩吟、演歌、歌舞伎、能、狂言。

社会地位の高いお宮の中にも、社会地位の低い下町にも、そういった芸能がそれぞれあった訳である。


人類が行き着くところまで来てしまった、世紀末な困った時代にこそ。

「わんわんわわーん、わんわんわわーん。」