金原です。
最近の僕は、自宅での自重負荷筋トレと読書と掃除に力を入れています。
後は、食事を一日二食にしたり、お酒をあまり飲まなくなったり、パートの仕事を週5日から4日に減らしたりしました。
・・・というのが、表面的なお話です。
ここ3ヶ月くらいの活動から、これからの日本人がどう生きるべきか?ということがより強く確信できたので、久しぶりに活動報告をしようと思いました。
組織から解脱する未来
・フィットネスジムを解約し、自宅で筋トレする。
・読んでもらわずに、自分で本を読む。
・親がするのを待たずに、自分が家中を掃除する。
ここに共通しているのは、「自分でやる」ということであります。
勉強にしろ、家事にしろ、仕事にしろ、自己管理にしろ、自分で出来なくなったら「障害者」か、「要介護認定者」かのどちらかです。
だから、できる範囲では、何でも自分でできる様にした方が良いなぁと思いましたね。
税金が高くなると文句を言う人が大勢いるわけですが、見なきゃいけないのは税金とか、収入とか、そいういう数字ではありません。
何かにお金がかかるから、収入が、税金が必要になるのです。
国民が自分で出来ないことが多すぎるか、あるいは、やることが多すぎて手が回らなくなっているのでしょう。
・自分で勉強できない
・自分で保育できない
・自分で教育できない
・自分で介護できない
・自分で生活できない
国債を除けば、国家予算の約半分が社会保障に消えていきます。
なら、上の様な要素が、税負担が大きくなる主な原因なはずです。
幼い頃に教育を受け、後期高齢者になれば介護を受けることもある。
これは仕方のないことだと思います。
それでも、この教育と介護の間には、「自立の期間」がないといけないのです。
ことろが、青年になっても自分で勉強が出来ない、大人になって結婚しても自分で保育や教育が出来ない、そのまま介護も出来ないで、「出来ないだらけ」のオンパレードになっています。
ということは、国民一人一人に生活力がないわけですから、最悪は生活ができないということで、生活保護受給者が増えても不思議な流れではありません。
金で介護してもらうだけ卑しくて
この流れで、人々は「金あればこそ主義」になりました。
つまり、「何でも自分でやらずに介護してもらった方がいいよね。そのためにお金儲けしようよ。」と言うのです。
他にも権力や支配を求めてお金を集める人がいますが、あれはもう考えが幼稚過ぎるので除外します。
で、人は元々ある程度は頼り合うものですが、それが行きすぎてしまったわけですね。
人が互いに介護し、介護されるで世の中は成り立っているのに、金だけ稼いで、働かないじゃ人手不足も当たり前。
そういう意味では、人そのものはむしろ余っている可能性があります。
・納税者と生活保護受給者
・店舗と工場の従業員と本部の役員
・宗教信者と宗教組織の幹部
どれも似た様なというか、構造的には同じです。
では、お金を与えている方と、お金をもらっている方の、どちらが偉いのか?
・・・なんて話がナンセンスなのは、もうなんとなく分かると思います。
労働者がお金をもらっているのか?それとも社長がお金をもらっているのか?
どちらとも言えるのです。
だって、企業はお客さんや国(納税者)からお金をいただいているわけですからね。
ただ、言えるのは、どちらにしても労働者が自分で仕事を用意できない、社長が自分で労働力を提供できない、という「依存」が過ぎているという要介護認定者的状況ですね。
そこからの「跳ね返り」を見せるのが、ここからの時代の大きな動きです。
企業で働くより自分でやる時代に
お金そのものは便利かもしれませんが、それを使うためには働かなければいけません。
すると結局は全然便利ではない、というのがお金の面白さです。
お金を得るために働く。
働くために就職する。
就職するために勉強する。
働いても税金や搾取で引き抜かれる。
時間、労力、お金。
お金を得るために、この三つがどれだけ自分の懐から出て行ってしまうのか?考えてみると、お金に依存した人生って不便なんですよね。
ですから、やっぱり自分でできる範囲では、自分でやった方がいいのです。
仮に、さっき挙げた様な5つの要素(勉強、保育、教育、介護、生活)を、全て自分たちでやってみたらどうなるでしょうか?
・塾と大学へは通わない
・自分たちで子育てする
・読書やインターネットで勉強
・自分たちで介護する
・生活の知恵を身につける
収入が激減するのと同時に、生活コストが激減します。
後は家さえ手に入ってしまえば、どうということはないでしょう。
今は空き家がどんどん増えていることろですから、時期にうまくいく様になります。
大きいのは、「企業に使われる」感覚から、「自分で生きている」感覚に移っていくことです。
これに目覚めて、ハマる人は急増するはずですよ。
要は、人々が人間らしさを取り戻すということです。
組織から解脱し人で繋がる時代に
人々が自分であらゆることをする様になる。
全てではないにしろ、そういう傾向のある社会へと移っていく。
すると、「組織からの解脱」ということが起こると思っています。
働き口としての企業から脱する、お店としての企業から脱する、あるいは国や大手メディアから脱する。
これは、外へ逃げるということではなく、「頼らなくなる」という意味です。
そして、人々が自立すると、やっと人間本来の姿を見せるようになります。
これまでの人類は、企業の中に属し、国の中に属しという感じで、自分が属する企業や国とは別の組織と争ってきました。
企業同士の争いや、国同士の争いに巻き込まれてきたのです。
ここには企業役員の思惑や、世界を牛耳る権力者の思惑があり、そのごく一部の人間に、その他大勢が振り回されていたわけですね。
それが、「頼らない」ということ一つだけで、一変します。
人々が、企業を超え、国家を超え、一人の人同士として協力し会える様になるのです。
単なるSNSの域ではありません。
戦争がより起こりにくくなるとか、それによる難民が減るとか、世界レベルで見たら、非常に大きなことが連鎖的に起こる様になるのです。
組織から共同体へ移る
これまでは「組織に縛られていた時代」と言えると思います。
国に縛られ、企業に縛られ、国家や会社のしきたりや風潮に我慢し続ける必要があるという、そんな雰囲気が日本全体にあったのではないかと思うのです。(特に企業ですね)
組織というあり方では、どうしても「トップダウン」になりがちで、下層の人ほどコマとして使い捨てられるという欠点があります。
また、組織には入り難く、抜けづらいという欠点もありますね。
企業で言うと、入社するまでにとても長いステップと手続きが必要で、辞める時は「辞め難さ」を感じてしまう人が大勢いるのです。
「ボトムアップの時代に変わる」と言われてからかなり経ちますし、時代は「令和」に変わり、2020年で新しい大きな流れを迎えました。
なので、これからは、だんだんとですが、そういう流動性の低さや理不尽さが解消される仕組みやあり方が広まると思っています。
それが、「コミュニティー」(共同体)というものです。
仕事もコミュニティーで行われる
コミュニティーというと、何かの組合とか村社会とかを彷彿させるかもしれません。
間違いではないのですが、既存の組合は組織的ですし、村社会は流動性に欠けます。
なので、これから明確なシステムとして広がるコミュニティーというものは、「
いつでも出たり入ったりできる神社」の様な感じになるのではないでしょうか。
ポイントは、利用者全員でコミュニティーの「共有資産」を築き上げるというところ。
大昔がどうだったのかは分かりませんが、イメージとしては、村のみんなでお金を集めて、神社を修繕したり、そこでお祭りを開催したりするといった感じです。
村のお金は神社だけに流れるのではなく、畑周りの水路や道路が壊れた時に直したりするのにも使われます。
もしかしたら、「村長の右腕」みたいな人がお金の使い方を決定して、場合によっては困っている町民個人の問題なども解決していたかもしれません。
これが労働の場や企業に適用されると面白いことになります。
企業は「資本金」というものを蓄えますよね。
これは企業が企業のために使うものであって、従業員にはあまり関係のないものです。
それが、これからのコミュニティーにおいては、「福利厚生の延長」のような形で、従業員の家を建てたり、食事を用意したり、子育てをしたり・・・と、例えばこういうことに利用される様になります。
家畜の飼育から人間教育に変わる
今の企業は、給料を渡せば、あとは知らんぷりです。
「これが大人の世界、社会人というものなんだよ」という、暗黙のルールみたいなのを漂わせて、それで終わらせます。
組織とは、ただのシステムでしかない、機械のようなものなのです。
悪く言えば、「家畜飼育マシーン」。
これが、共有資産を使って人を育てる、人の面倒を見る、ということに変わって行くんですね。
労働者(コミュニティーメンバー)一人一人の家庭環境が改善されれば、病気になる人や、路頭に迷う人が減ります。
それだけ生産性は向上し、コミュニティーの資産を更に大きくしていくことになるでしょう。
そして、「そんないい場所があるのか!」と、企業価値みたいなものが高まり、コミュニティーにはより良い人、優秀な人が集まってくるようになると。
こういう循環がある訳です。
あとは、このコミュニティーがどのように運営されるか?ですね。
これは、言ってみれば「参加型」ということになると思います。
全員が営業し、全員が販売をする
今っていうのは営業の人、製造の人、販売の人がみんな分かれていて、自分の仕事しかできないようになっています。
その方が、”管理する側”から見たら効率的だからです。
ですが、その視点を、組織そのものが生きているとして、組織の立場になってみると、実は全然非効率だということが分かります。
組織という生き物が思っていることを簡単に言えば、「アイディア持ってる人がアイディア出して、仕事の案件持ってる人が仕事持ってくれば良くね?」という感じ。
要は、コミュニティーの全員が商品開発をし、全員が営業をし、全員が販売をすればいいのです。
コミュニティーを運営するリーダーや決定役は必要だと思いますが、せっかく万能な人間なのに、特定の仕事だけをさせること自体が非効率なんですね。
「実は、今こういう案件があるんですけど、やってみませんか?」
「こういうアイディアがあって、こうしたら面白いと思います。」
「知り合いの〇〇さんっていう人がとても面白くて、紹介したいです。」
「こういう特技あるんですど、何か力になれませんか?」
「実は、こういうことに困っていて、みんなの力を貸してもらえませんか?」
例えば、こういう声をコミュニティーリーダーに集め、リーダーが方向付けをし、決定役が何をするかを決定します。
例えば、コミュニティーの中に大工や農家、料理人などがいて、どこかのアイディアマンが「コミュニティーメンバーの衣食住を無償で整えてあげたら面白いではないか」と言えば、それが実現するかもしれないのです。
「ウチは家電販売の会社だから、そういうことはやってないよ」と言っていたものが、コミュニティーメンバーの持ち寄る特性やご縁によって、どんどん柔軟になっていくという面白さがあります。
これからの市場動向が楽しみです。
まとめ
お金に頼りきの労働漬け生活から、できるだけ頼らずに、地に足をつけて、自立する。
そうした立派な個人の集まりが、コミュニティーを形成する。
コミュニティーはより柔軟に、お金のためではなく、「人のために必要なこと」をやっていく。
企業は結局、利益を上げるのが目的になりがちです。
これではお金を動かすのではなく、お金に動かされてしまいます。
それが今の社会が腐敗している理由の一つです。
お金はどこまで行っても手段であり、道具の一つに過ぎません。
実際には人が働いて、それぞれがお互いに貢献し合えばそれでいいのです。
物々交換さえ必要ではありません。
お金がなくなるわけではありませんが、お金に縛られずに、人が誰かの力になれて、困った人が誰かに助けてもらえる。
そんな社会システムがコミュニティーによって実現する時がもうすぐきます。
それでは、明日も心技体、それぞれ磨いて参りましょう。
ありがとうございました。